マコの闘病日記


闘病生活をつづった日記
by amamasa2006
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31

このブログへコメントを贈って頂いた全ての方々へ

小宅 nao wakabon kokoroomete イシヤマトモミ T マナブ レイコ ANE こび 秀 ぴゅーこ まりちゃん Kシ せいじ 久々のスーパースター寿司やのK いも子 かおりんご タイの人 香サマンサ にえこ Tの旦那 マナビシ のぶこでーす ZOO kaorisama tat こぴよめ 看護師 宮口なつ子 まさこ まりこ みっくす マンマルボイス 更紗 まみ 柏文祥 安原(伊藤) かごし mi-no 須田誠二  天谷宏行  ちえこ  吉田昌樹 H しゅういち まな 吉田裕介 美貴 Kヨ 石山友美 弥生 りぃーまぁー なおみ キムラ嫁カオリ yumeguri 中平 orino 奥 イチロウ mako2 ANE マルコ 奥様K 誠二 通りががりの みちる 幸太 ガンセンターの先輩 あーにゃ 南貴子 みこ  初めまして うさお ヤマ orakuji その他多数のコメントを贈って頂いた皆さんへ。


毎回コメントを贈って頂いた方 初めてコメントを書いて頂いた全てのコメンテーターに 
亡き雅子に代わって厚くお礼を申し上げます。 
昨夜 やっと全てのブログとコメント(非公開を含めて)を読み終えました。
そして全てをプリントして霊前に供えさせて頂きました。

このブログにより辛い闘病生活を乗り切る力を与えられていたことを 
今更ながらに痛感しています。
 
多分この日記とコメントが雅子に取っての生きがいだった事と思っており 
亡き雅子に代わり 最後のページを勝手に掲載し 
全ての方々に感謝して最終投稿にさせて頂きたく思います。

最後のページですので マコの事 少し話したいのと
ブログを読むために初めてパソコンに接した父の日記と思って下されば幸いです。

昭和50年2月14日 世はバレンタインデー。待望の女子出産の報を受けながら 仕事から離れられず 帰宅後初めて見る子は サルの様な 真っ赤な顔した 触ると潰れそうで 抱く事も出来ませんでした。
祖母の名前が  まさ。 その名を頂いて 雅子と命名。
健康にすくすくと育ち 祖母にこよなく可愛がられ 愛され おばあちゃん子に育ち  
其の頃より 金魚やめだか 犬等 生き物の好きな女の子でした。 
幼稚園に行く頃には私と一緒に キャンプや釣りに 田んぼにドジョウ取に 
近くに有った釣堀にと 野生児のこどく育ち 
いずれ大きくなったら 私と恋人のごとく買い物や遊びに行く姿を楽しみに見てきました が 
高校に入る頃から 何時しか娘のアッシー君だけの父に成り 何か寂しさを感じている頃 
東京の学校へ進学 だんだん離れた存在になっていました。

祖父の看病のために帰水してからも 通称ノラ のごとく 家に居ることは少なく 
ZOO達と友達と過ごす時間が多く  ほとんど父との会話は無くなりました。
男親とは寂しいものと。。。。

何れ嫁に行けば 他人の人に成ってしまうんだから仕方が無いと 半場あきらめている頃 
案の定 数年の交際を経て 何れは結婚したい人が居ることを伝えられ 
私は言ってやりました

(俺の可愛いマコを 嫁にしたいやつは 一発ぶん殴ってやるから)と。

マコは本気にしていたようです。

そして2006年正月3日  
(僕に下さい ぶん殴られても)と
てっちんよりの結婚の申し込みを まさか殴るわけにも行かず 
結局は男親の寂しさを感じながら 結婚式には泣いてなんかやらないからと  快諾。

そして運命の日が。
1月30日  
数年前の交通事故での後遺症として痛む足を再検査治療と近くの街医者に行ったところ 
大きな病院での再検査を指示され 
ナンデカナーって感じで受診、
またまたもっと大きな病院での再検査を指示され 
これは何かあると母親と病院へ行ったのが 
宣告の日。
余命3ヶ月。
耳を疑い 何で どうして 何があったの  
私たち家族全てが人生最悪 真っ暗な日に。

それでも気丈な母に支えられて 
2月6日入院 すぐに最強の抗がん剤での治療を決め帰宅、

母親とも話し 折角の婚約も破棄して 結婚をあきらめるよう話しましたが
本人は元より  てっちん そしてご両親の暖かい気持ちに 入院二日前の2月4日
節分祭で忙しい中を 水戸八幡宮の宮司様に無理やりの挙式を依頼し 
境内にて極寒の中 何とか花嫁衣裳に身をかざした娘の結婚式を挙げ 
私のレストランでドンちゃん騒ぎの披露宴 
 
二度と歌えないかもと 大好きなドリカムの  ラブラブラブを本人熱唱。

よく5日だけ てっちんとの時間を過ごし6日には入院。

娘は嫁に行けば結局 親とは離れていくもの と 寂しさを感じていたのが一変。
親と子の誰にも入れない感情が一気に湧き出し 
無言の心の通じ合いが抱きしめる娘からひしひしと感じ お互いに涙し
無言の病院への見送り。

入院後の死への恐怖との戦い 電話でのやり取り 変わってやれない辛さ。
書ききれない程の気持ちでした。

結局死ぬことへの必然さを聞かせ 
全ての人が明日交通事故 言われ無き殺人等で死んでしまうことがある事を話したりして
死を見つめず 少しでも長く生きる希望を持つよう諭すのが 精一杯でした。

その後はブログに書いてあるように過ごしましたが
強い抗がん剤も効かず セカンドオピニオン診断も希望の持てないものと知り
全ての抗癌治療を断念し 自宅にての療養と家族との時を得ることに決め
ブログ掲載のごとき日々となりました。


今年に入り体力も低下し3月頃より寝たきりとなり心配な日が続きましたが
6月に入る頃にはかなり元気になり 食欲も増し 入れなかった風呂にも入り 
私とも いつも以上に長い時間 話などをして 
暑い夏を頑張って乗り越そうと話していた矢先の11 日。


其の日は朝から元気で トイレも済ませ 
お昼ごはんにソーメンでも食べようかと 話していましたが 
二時半ごろより体調が急変 
主治医の来診を待ち 三時12分静かに母親に抱かれたまま。。。。。。。。。。


 病気のお陰で普通の親子以上の親密な時間を過ごし 
又 病気の娘と真剣に喧嘩し
三ヶ月と言われた日を 大幅に延長  
二年半もの時間を得ることが出来たこと
又 病気発覚とともにてっちんを得られたことに
全てが早くても遅くても 違った様相を呈したのではと、 
この時にこの状況になれた事に納得しています。
 
結婚も出来ず 友達も無く ブログの事も知らずに居たらもっと最悪だったからと。

さてこの7月11日は祥月命日に中り てっちんの両親 近しかった友人が来てくれるそうです。嬉しいことです。
自分が死んでもさてさて誰が来てくれるのかなーって考えると娘がうらやましき限りです。

神道(神社での葬儀)でおくりましたので 
百日祭(物事での49日)を9月21日にいたします。

其の日までにお墓を建立しマコの納骨をしたいと今 友人達の手を借り 
雅子の墓標を マコをしのべるモニュメントとしてデッサン中  
球体のオブジェに 三日月と六角支柱に マコの顔のイラスト 
好きだったドリカムの五線譜をあしらう
 
そんなモニュメントを計画作成交渉中です。
其の日に百日祭と納骨式を行う予定で折りますので 
参列はどなたでもいといませんので 是非ともご連絡を下さいませ。

最後にマコを今まで 支えてくれた皆様に
心より 厚くお礼を申し上げます。

最後の最後に 今病気で戦っている人  健康に過ごしている人に 
マコに伝えた言葉を記し  最終のページとさせていただきます。

(人は 明日 交通事故 言われ無き殺戮で
     命を落としてしまう事が有る。
        誰しも 死と直面している。
           死を恐れて生きることは 破壊だけを生む
              死を考えず  生も考えず
      ただ ひたすら 今日を大切に生きろ)と。

ブログは毎日 今でもチェックし 新しいコメントはプリントして霊前に供えています。

最後のコメントを マコ共々 お待ちいたしております。

長い間 有難うございました。                 父より



                   
[PR]
by amamasa2006 | 2008-07-07 04:33
<< 早 一回忌を迎え  報告パート2 >>


カテゴリ
以前の記事
お気に入りブログ
リンク
ライフログ
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧